ホニャラノイエの途中下車案内人「武留」を紹介します!
シャルソンという交流型まちめぐりイベントのこと、大手企業の辞め方、電車のこと、他にもいろいろ話せます!
略歴
2008年4月 JR東海へ就職
2013年 第1回岐阜シャルソン主催 ※シャルソンの説明は本文中
2018年2月 JR東海退職・世界一周新婚旅行へ
2020年3月 ホニャラノイエ開業
ホニャライエをやろうと思ったきっかけは?
元々旅がとても好きで、年がら年中旅が出来るような、そんな気分になれたらいいなと思ったこと。
拠点を構えてみんなが遊びに来てくれて、そしたら次は僕がみんなのところに遊びに行って関係が作れるような場所が作りたいなと思いました。
「人生の途中下車しませんか」とは?
元々僕もJRで10年務めてきて、途中下車というか、まあ僕は永久下車したんです。笑
完全に道を外れなくてもいいから、会社勤めとか社会で大変だなと思っている人が、ここに立ち寄ってその時だけでも日常から解放されて、リセットして、新しい気持ちで日常に戻っていくようなイメージでした。
勿論道を外れてくれてもいいんですけど。 笑
子どもの頃はどんな感じだった?
自分の世界に没頭するタイプだったかもしれないです。例えば鉄道がめっちゃ好きで、学校まで時刻表を持ち込んで休み時間に一人で読んでました。
あとは、地図も好きでよく眺めながら、ここ行きたいなあとか考えていました。そして中2の頃から一人旅を始めていました。
JR東海へ就職するまで、鉄道会社へ一直線でしたね。実は高校で名鉄と東急を受けてどちらも落ち、就職に失敗したんです。その時、他で就職しようかとも思ったんですが、親父に頼んで専門学校鉄道交通ビジネスコースに通わせてもらって、もう一度挑戦しました。
夢だった鉄道会社に就職出来て、どうでしたか?
楽しいことも凄くたくさんあって、知識が生かせることもあったのは良かったです。
だけど会社で働くってなると自分だけじゃないいろんな要因がからんでくるし、理想だけじゃない厳しい所も色々あったり、縛りが多くて窮屈さも感じ、きついなとも思っていました。まあそれが普通かなとは思ってましたが。
電車は趣味でもよかったのかな。
仕事になると目線が変わっちゃうというのもあるし、自分にとっては自由な世界の方がいいのかなと思います。
入社5年目に出会ったシャルソンというイベントが転機に
偶然見つけたこのイベントに参加してみて、すごく面白かったんです。参加者が自由な考え方とか視野を持っていて、僕にとってかなり衝撃でした。会社にずっと勤めるだけじゃない、こんな生き方もあるんだと思いました。
シャルソンとは、ソーシャルマラソンの略で、パーティーするようにマラソンをするイベントなんです。元々はフランスのメドックマラソンから来ていて、給水所にワインが置いてあるんです。ワインがあると乾杯しますよね。そしてランナーは最後にパーティーに参加するんです。
これに参加した佐谷恭さんという人が、日本に形を変えて持ち込んだのがシャルソンです。シャルソンはタイムではなく経験を競います。同じTシャツを着て走るので、参加者同士が出会うとそこで交流が生まれたり、給〇ポイント(水の代わりにいろんなものを提供している)をやっている店の人たちとも交流があったりします。
「岐阜シャルソンはいつやるの?」という一言が心に残る
僕は安曇野シャルソンに初めて1人で参加して、なんのこっちゃわかりませんでした。受付でTシャツと地図を渡されて、「後は自由に行ってください」。「あ、はい」と言いながら、「これどうやって回るんだろう」と思っていました。地図もここのシャルソンは全部で40キロ四方ぐらいありましたし。
とりあえず着替えていたら、シャルソン創始者の佐谷さんが話しかけてくれたんです。「どこからきたの?」「岐阜からです」「友達いるの?」「ひとりです」とか話していたらいきなり「岐阜でシャルソンいつやるの?」と。
まだ何もわかってないのに「何言ってるんだこの人は」と思いました。
でも終わってみると面白いし、「自分でもできるんじゃないかな」とじわじわ後から思うようになっていき「いつかやりたいな」と思うようになりました。
当時、岐阜県にも近隣の愛知県にもまだシャルソンはありませんでした。
手違いで運転士になれず
シャルソンをいつかやるとしても、丁度運転士になろうという時だったので、それが落ち着いてからかなと思っていました。試験に受かると半年はみっちり勉強しないといけないんです。
ところが試験は通ったのに、研修が始まる前日に事務長に呼び出されて「研修に行けない」と宣告されたんです。会社の事務手続き上のミスが原因でした。
僕は鉄道会社で運転手を目指していたので、そこで心理的にぽっかり穴が空いてしまいました。
それで、空いた休みで出かけた先でふと「シャルソンを今やってみよう」と思い「岐阜シャルソンをやる」宣言をしました。
初めての岐阜シャルソン主催はどうでした?
ほんとぐずぐずでした。笑
参加することは好きでしたが、今まで自分で何かをやったことは一切なかったんです。
シャルソンが楽しいということだけはわかっていましたが、シャルソンの本質も、どんなふうにすればうまくいくのかもよくわかってませんでした。
一人ではできないと思って、動いてそうな人に色々声を掛けたものの当初はなかなか集まらず、「やべえ」と思って九州の友人に相談たらメンバーを紹介してくれ、かろうじて4人集まりました。
でもそのメンバーにも「シャルソンとは何か?」という説明すら満足にできない状態で…。何が楽しいかも説明できないし、どうすればいいのかも本当にわからなくて。そのせいで1月に集まって5月開催なのに、Tシャツのデザインを決めるだけで2か月も浪費したりしていました。
それと並行して協力してくれる店舗を探しに声掛けに行くんですが、最初は全然ダメでした。打率2割くらいで…。ただだんだんコツをつかんできて「この店はいけそうだな」というのがわかっていくのが面白かったです。
それでも開催できたことは「やろうと思えばできる」ということが実感できたので、自分の中で大きかったです。
このシャルソンは、場所を変えながら現在まで年1回ペースで継続し、現在はホニャラノイエにて大野シャルソンを開催しています。
夢だった運転士への熱量が冷める
運転士の試験は一応あと3回チャンスがあり、毎年受けました。ただ、その時はどこかで「受かったらどうしよう」という気持ちもありました。
もし受かってしまったら、シャルソンも出来なくはないけど自由に動けなくなって厳しい状態になってしまうという思いがあったんです。運転士に対する熱量が冷めてしまっていました。そのせいか、結局3回とも落ちました。ただその時の気持ちはあまり覚えていないんですよね。
JRを辞めて宿をやろうと思ったのはいつから?
宿をやりたいとふわっと思い始めたのはシャルソンを知ったあたりからで「そういう暮らしもいいな」となんとなく思ってました。ただその時は会社を辞めてとまでは考えてませんでした。
運転士がダメになったあたりから、会社って基本個人を大事にしないんだなということが痛切にわかりました。これを語り始めると黒くなるから省略しますが…。
そこにいるのは自分にとって幸せなのかなということを考えると、すぐにではなくても辞める選択肢も考えていかないと、と思い始めました。自分自身がよくゲストハウス等に泊まっていたこともあり、交流できる雰囲気の宿をやりたいと思うようになりました。
やると決めた瞬間はいつですか?
岐阜シャルソン第3回を終えたあたりで「生き方をぐいって変えたい」と思ったんです。
その時失恋をしまして、それをきっかけにそれまでの自分がこの先の生き方に対して「受け身」だったのかなと思うようになりました。
自分のやりたいことは頭にあったんですが、それに対してその時の彼女はマッチしてたのかなと考えると違っていたなっていう。そこからもっと自分のやりたいことに向けて具体的に動いていこうと思ったんです。
が、同時に一人でやるのは厳しいとも思いました。なんとなく思ったのは、次は宿を一緒にやりたいという人がパートナーとして現れたらいいな、ということでした。
そこから会社には黙っていましたが、交流会などで「宿をやりたい」という自分の想いを語るようになりました。
いつやるかまでは決めてませんでした。期限を決めるのは違うかなと思ったので。だけどとりあえず動いてみて縁があったらそこにいくのがベストかなと思っていました。
もう一つの転機、大野町との出会い
当初は大野町でとは全く思っていませんでした。
もう少し田舎か、または駅が近い街の方がお客さんが入るかな、などといろいろ考えていました。のんびりやりたいな、とだけは思っていたんですが。
ある時(ゲストハウス開業合宿などで有名な)中村功芳さんのイベントが岐阜であると知り、気になって参加しました。そこで出会った人から、「大野町で自由に使っていいと声を掛けられている古民家があって、チームで何かやりませんか」という相談を受け、これも縁だなと思い、やることにしたんです。
そこで片付けイベントや、第1回大野古民家シャルソンをスタートさせたりしました。
当初はそこで宿をやりたかったんですが、条件が折り合わず。でもそれが今の場所とも繋がっています。
JRを辞めると決めたのはいつ?
瑛美ちゃんと出会ったのが辞める前年の5月でしたが、そこからがトントン拍子で、9月に付き合い始めて「将来やりたいことも一致してるし間違いないだろう」ということで、翌年ぐらいにJRを辞める決断をしました。
有名企業を辞めることに勇気はいらなかったのかと聞かれますが、タイミングはどうあれ、やめることは前から意識して動いていたので、今来たんだなという感じでした。
不安もなくはないけど、ここから自分でやっていくことってすごい可能性あるよなって思って面白さをの方が強かったです。
JRで働きながら何かをするというのは、岐阜シャルソンなどを主催するなどして試してみましたが、本業じゃないし、2足の草鞋みたいな感じで僕には違うなと思っていました。だったら完全に会社を辞めてから始めた方が自分のやることがすごく広がるんじゃないかなと。
さらに瑛美ちゃんも会社を辞めて5年ぐらいふらふらと生きてきたと言うので。大先輩をパートナーとして得たから大丈夫かなと。笑
ちなみに瑛美ちゃんが京大卒だったので、会社では玉の輿説も出ていました。笑
家族の反対はなかったんですか?
親父が一番ネックになるかなと思いました。JRが決まった時も喜んでくれたし。やめるといきなり言ったら大喧嘩になるだろうと思ったので、ジャブを少しずつ打っていきました。
シャルソンをしている話をしたり、そこで活動している人と会ってもらったりして、なんとなく会社以外で何かをやる姿をチラ見せしていたんです。
で、瑛美ちゃんと付き合い始めたことを話すときに「相手が5年前に会社を辞めてこれから宿をやりたいと思っている子なんだ」と言うと、親父の方から「お前JR、辞めるのか」と言われました。
そこに至るまで1,2年くらいかけました。そこは、気を使ったというか…まあ親ですしね。
ホニャラノイエをどんな場所にしたいですか?
色んな人と僕がつながるのももちろんですが、それだけじゃなくて、そこに来てくれる人同士でつながるような場所になれたらいいなと思います。
多分これからの時代つながりが重要になると思っていて、コロナでいま押さえつけられているような世の中ですが、ここを抜けた先には人間関係が大きな力を持つ時代が来るんじゃないでしょうか。
元の場所に戻るのでも、単に戻るだけじゃなくて、気づきがあって戻れたら違うと思いますし、戻った先で出来ることは誰にでもあると思うので、そんな場所でありたいです。
あとは人が集まった時に旅人と地域の人がうまく交わるようなことが出来たらなと思っています。
ホニャラノイエはどんな人に来て欲しいですか?
僕達と友達になれる人、友達になりたいと思って来てくれる人がいいです。
一晩だけかもしれないけど、せっかく出会うのなら、いろいろその人の話も聞きたいしですし、僕らの持っているものも語り合えるようなそんな人に、年齢国籍は問わず来て欲しいです。
▼グダグダなインタビューの様子はこちら!